【本読み日記】ただひたすらに、今を生きる 『一日一生』
忘れられない映像がある。
それは、水墨画で描かれたような雪山の森の中を、ひとりの僧侶が走り、駆け抜けていく姿。
来る日も来る日もひたすらに、ただひたすらに歩き続け、時に走り抜けていく。
毎日同じことをひたすらに、ただひたすらに続ける、ひとりの僧侶の姿。
その映像に映っていた「ひとりの僧侶」は、天台宗大阿闍梨酒井雄哉さん。
NHKで放送された『「行」比叡山・千日回峰』でのシーン。
今でも覚えているそのシーンのある番組が放送されたのは1979年1月7日。自分が8歳の誕生日を迎えて5日経った日だ。
そんな子供の頃に見た映像を、なぜ今でも覚えているんだろう・・・それほどのインパクトが強かったのか、今ではもうその理由はわからない。
それでもそのことがきっかけで千日回峰行のことも大阿闍梨のことも知っていたから、『一日一生』という大阿闍梨の本が、あるテレビ番組で紹介された時に「ぜひ読みたい」と思った。
千日回峰行を2度も成し遂げた大阿闍梨の本に、どんなことが語られているのだろう、ほんのちょっとした興味みたいなものが湧いたからだ。
この『一日一生』が発行された2008年当時、大阿闍梨は82歳。
「なぜ、千日回峰行をされたのですか、それも2回も」
「どうして仏門に入られたのですか」
といったような思いに応えている内容も多くあるが、そういった部分から広がって、大阿闍梨の人生を振り返るような話が主に語られている。
一節、一節に、戦中戦後を生き抜いてきた時代の人であることの壮絶さを感じることがもちろんあるが、それでも「大阿闍梨も普通の市政の人々の1人」であると強く感じさせられることがたくさんあった。
「何も立派だなんてことはないんだよ」
「こうやって歩くということに導かれてきたんだよ」
そんなふうに、何かに抗うということもなく、自然に人生を歩んでこられた、そういったことが語られているように感じた。
自分の年齢をいえば、「そんな歳になって」と言われそうだが、まだまだできることがたくさんあるように思うし、夢もある。ここのところよく書いていることだが、齢50を過ぎて、ようやく見つけることができた自分の使命みたいなものを持っている。
また、「まだまだ若い、そんな歳で」と言われそうだが、今こうやって自分の使命みたいなものを持つことができるようになったのには、振り返ってみると必ずといっていいほどの数々の出会いがあり、それらに導かれて来たんだと思う。
でも、たくさんの回り道をしてきたし、もう少し勉強しておけばよかったなぁって思うこともたくさんある。
誰かのためについた嘘が、取り返しのつかない嘘になってしまったこともあるし、何も考えずに口から出た一言でたくさんの人を傷つけもしてきただろう。そう思うということは、自分に後ろめたいと感じる行動をした自覚があるということなんだな。
とはいえ、たくさんの回り道を歩いてきたことで、たくさんのいろいろな経験をすることができた。
いろんな栄養を蓄えることができたんだと思えば、決して無駄なものではない。
ただ、それを消費しなくては、贅肉となって体にこびりついて健康を害するほどになってしまわないとも言えなくもない。
だから、アウトプットをしっかりやっていかなければ、行動しなければちゃんと代謝しない、循環しない、巡らせていかなければならないんじゃないか。
何かを続ける、継続することはとても難しい。
根気のないおいらは、自分の継続力のなさに困らされることがよくある。
たくさんの回り道を歩いてきたのもその現れだろう。
大阿闍梨が語っているように、
今日の自分は草鞋を脱いだ時におしまい。そこからは明日生まれ変わるために、一生懸命反省すればいい。
『一日一生』
朝起きて、毎日決まったメニューの朝ごはんを用意し、コーヒーを淹れながら香りに癒され、一日おきに洗濯をして、パソコンを立ち上げて在宅ワークを始め・・・
そんなふうに決まったようなことではあるけど、毎日くるくる同じようでいて同じでない一日を、しっかり生きていくことに、結果、意味があるんだろうな。
でも、結果なんて気にしなくていいんだよね、今を生きる、それが全て。
言葉で言うのは簡単だけど、これが意外と難しいのが、欲望にあるれた現代なのかもしれないな。