オイラ ノ ノウミソ

感情の表現の難しさよ・・・せめて文章でくらい上手く表せるように

おいらは感傷に浸ることを得意としない。感動や喜び、悲しみや怒りという感覚を、体いっぱいに表現することを得意としない。
これは、おいらが日本人として日本という土地に生まれ育った、という理由が大きな部分を締めているように思う。日本人の多くは、感情を顕にしたり、体で表現することを良しとしないところがある。感情を表に出すことを下品と感じることも、無きにしもあらず。何が上品なのかはわからないし、そういう生活を送っているわけでもないのに。

 

おいらは韓国語で書かれた文章を、ショートストーリーやエッセイという形で読むことが好きだ。ハングルで書かれた文章を読み、意味を調べたり、翻訳の真似事のようなことをしたり。これはある意味おいらの趣味の一つと言ってもいいだろう。この趣味は、頻繁に、根を詰めて、毎日、というようにやってはいないが、時々思い出したように始めると、頭の中が喜んでいるような感覚になる。
韓国語というのは、文法が日本語とよく似ている。似ていると言っても、表現は異なる。歴史も環境も異なるから、当然といえばそうなのだけど。
なので、韓国のショートストーリーやエッセイを読むと、そう表現するのか、と、おいらの脳は刺激を受けるようだ。それが心地よかったり、ほんのりとした暖かさを感じたり、時にはぐっと力が入るような、苦しみがあることもある。

 

なぜ、そのような感覚に陥るのだろう、と、おいらは考えてみた。

 

おいらはKBS World というチャンネルの中から、4つから5つほどの番組を録画して観ている。いずれもバラエティ番組や、ドキュメンタリー番組で、一般の市民が出演しているものが多い。どんな番組であっても、ある程度は演出があるということは承知している。それでも、出演するタレントを含めたいずれの人々も、驚きや感動、喜びや悲しみと言った感情を隠すことがない。わざとらしさのかけらもない。わざとらしさを感じさせないほどの演技力だとは思えない。(それが演技である場合はわかる!)本当に、こころからの感情を、体いっぱいに表現する。だからこそ、その感情を言葉に変換することも、韓国の人々は得意なのではないだろうか。

 

韓国語の文章を日本語に訳すと、ときどきどきっとするような、恥ずかしくなるような文章になることがある。これを日本語らしく表現するとしたらどうなるのだろう、と考えてみるが、どうもそのような表現は日本語にないのでは?という結論に至る。
いや、むしろそれはそのまま、日本語で表現するとちょっと恥ずかしくなるような表現であったほうが、より韓国の人々の感性を伝えることにつながる、そう思うようになった。
ちょっとどきっとしたり、ちょっと頬を赤らめてみたり、そんな感覚にさせてくれる韓国の文学。日本での人気の理由は、そんなところにも存在しているのではないだろうか。

 

感情を体や言葉で表すことが苦手なおいら(日本人)。
苦手でもいい。全てを表にさらけ出さなくてもいい。
感情を、人の心やその交流の悲喜交交を、文章で表すときには素直に表現できるようにしていたい。
心地よかったり、ほんのりとした暖かさを感じたり、時にはぐっと力が入るような苦しみを感じたら、その文章からの学びを深めていこう。

 

おいらの趣味は次のステージへ移った。

 

雑然としたおいらの本棚

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA